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脳内出血発症 [回顧録]

2013/2/1 am2時頃、トイレに行って、寝室に戻る途中、リビングで倒れてしまった。
2/1にお客様と会議の約束をしていたのですが、小生がam 9:00になっても来ない。
お客様が小生の携帯電話に連絡をいれても返事がないので、とっさに何かあったのではないかと思い、
いろいろな方に連絡したが、連絡がつかないので、向島警察署に状況を説明し、
鍵屋と警察官立会いで開錠して、小生の姿を発見し、救急搬送でS病院に入院、
出血してからの時間が長かったので、脳内出血から脳室外まで出血していたそうです。
出血が止まるまで、止血剤の点滴注射をやって頂いたようです。3週間くらい記憶がなく、夢で小生の位牌に享年56才と書いてあるのをはっきり見ました。
別の夢は、ここは救急病院なので、治る可能性のない患者を退院させて、墨田区の他の患者を助けるのが仕事なので、強制退院させられるという夢でした。止血後、病院のベッドの頭の方を上げて頂いたら、麻痺している左側に体が傾いてしまい、補正しようとしても出来ませんでした。改めて事の重大さを知りました。1ヶ月をややオーバーして、出血は、収まったので、リハビリテーション病院に転院しました。車椅子で食事をするという事
なので、車椅子に座らせて頂き、食事までの数分でしたが、一人でいたら麻痺側の左に体が傾いて補正できなかったので、床に落ちて、車椅子が小生の体の上に乗ってしまいました。
救急車で脳神経外科に行ってCTを撮って頂いた結果、再出血はしていないが、安静にするように指示されました。フィジカルセラピー(PT)、オキュペーショナルセラピー(OT)、スピーキングセラピー(ST)を毎日やりました。最初は座る訓練をしました。
このまま一生、座ることが出来なかったらどうしようかと不安になりましたが、
1ヶ月くらいでリハビリのストレッチ用マットに一人で座れました。
歩行練習も、最初は腿までの長い補装具で練習して、膝までの補装具になり、最後は、杖と補装具で歩行練習をしました。6ヶ月経過したら、リハビリの先生に同行して頂き、病院の近所を散歩しました。お客様の社長と副社長が毎月、見舞いに来てくれました。
仕事にいつ頃復帰できるか、聞かれたので退院したら挨拶に伺いますと返事しました。
リハビリをしながら自宅で、風呂の補助、着替えの補助、食事補助をしてもらい、その他は自立できるように訓練していました。会社の通勤をイメージして、最寄り駅まで歩行訓練をして、10分くらい休憩して、自宅に戻りました。健康の時は、駅まで10分未満でしたが、13分くらいかかりました。何回か歩行練習をして、油断していまい、転倒してしまいました。救急病院に左大腿骨頸部骨折で入院しました。すぐに人工骨頭置換手術を施術して頂きました。





日本に帰国 [回顧録]

母の様子を心配しましたが、小生に出来る事は、元気な顔を見せるだけでした。 病院に見舞いに行ったら、母の様子は、小生の想像よりもずっと良さそうに見えました。 手術の全身麻酔の準備だと思いますが、プラスチックのボールをストローみたいなもので吹く練習をしていました。話も普通にできたので、病人という感じは、あまりしませんでした。 手術は、胃の全摘手術で、既に各部位に転移しているので、転移箇所はそのまま という事でした。 手術が無事終了したので、アメリカに戻り、残作業整理及び引継ぎを1ヶ月で完了しました。 メールアドレスと電話番号を連絡して、帰国しました。 帰国後は、以前にお世話になっていたお客様に挨拶に伺い、アサインのお願いをしました。 運よく、すぐに仕事ができ、母の様子を見ながら、平穏無事に暮らしました。 業務内容は、概要設計書の作成がメインで、開発チームのリーダーとして、進捗管理もしていました。オフショアーの開発案件があると開発基準書を作成しました。 その後、中国に出張し、開発基準の説明をしました。 上海の事務所は、数回伺っているので、地下鉄でホテルから事務所に行ってみました。 電車の中が騒がしいので、下車する駅を乗り過ごしたら、いけないので緊張しました。 何とか事務所に到着でき、ほっとしました。 開発基準書は、命名規約、コーディング規約、レビュー規約、チェックシートなど 各パートに分けて、説明しました。理解しているかどうか心配だったので、 「チーダラオマー」(わかりますか?)と何回も確認しました。 昼食は、お客様の部長がご馳走してくれました。日本で、200円くらいだそうです。 お客様用のセットメニューでした。パクチーのスープが独特の味でした。 夜は、日本企業の駐在所長と会食しました。 Cタオビールとショーロンポー、で乾杯。 麻婆豆腐は、山椒のぴりっとした味でとてもおいしかった。 マーでラーではない本場の味でした。 上海ガニを使ったカニ豆腐のカニ味噌の味が絶品でした。 上海焼きそばは、小生には、少し甘い感じがしました。 上海の飲料水は、純水なので、ミネラル不足になるといけないので、 長く滞在する時は、サプリメントを持参した方がよいそうです。 翌朝午前中だけ開発基準の説明と質疑応答をして、午後4時出発で日本に戻りました。 3ヶ月後、中原の鄭州に出張しました。 上海の事務所で午前中会議をして、正午に国内線で鄭州に向かいました。 昼食は、機内食を食べたのですが、小生の口に合わなかった。 鄭州に到着し、鄭州の事務所に迎えの車で行きました。上海と景色が全然違って、 日本の大正時代か昭和初期のような気分になりました。 会議が終わりディナーに有志で、出かけました。 火鍋(コーッコ)が日本のしゃぶしゃぶに似ていて、タレがピリカラで小生は、 おいしいと思いました。白酒(バイチュウ)と言うアルコール度数50度くらいの 強い酒に合いました。





新規ユーザー開拓 [回顧録]






N Steelの本番移行も完了し、不具合も発生しないので、お客様の許可を得て、 州都のコロンバスに新規ユーザーの発掘に出かけました。 コロンバスには、日系企業が80社以上ありました。 その中で、コンピュータシステムのバージョンアップを要している会社に伺いました。 何度か足を運んでいる内に、D社が、有望だとわかったので、早速伺わせて頂きました。 お客様のご使用されているERPシステムを全く知らなかったので、ERPシステムの本社に伺い、社員教育として、特別参加させて頂けないか、お願いしたら、喜んで承知して頂けたので、UKオフィス、カナダオフィス、ミネソタ州のオフィス、ペンシルバニア州のオフィスの方たちと一緒に受講させて頂きました。ERPシステムに関しては、世界的に有名なシステムSを日本で使用していたので、入り易かったです。一ヶ月間みっちり教育を受け認定証書を頂いたので、お客様に持参し、信用して頂きました。 マイケルコートからは、車でハイウェイを使って、片道2時間半かかるので、最初の一週間だけ通い、その間にアパートの解約と新しいアパートを探しました。ユーホールを利用し、自分で引越しをしたほうが、出費は少なくて済むのですが、時間的余裕がなかったので、 引越し屋にお願いしました。 ERPシステムの改善の傍ら、MS ACCESSで部品展開データを作成し、ERPシステムとインターフェースしたいと要望がでたので、MS ACCESSのヘルプを参照しながら、プロトタイプを作成しました。データベースの考え方が、自分の知識の範囲内だったので、 結構楽しんで仕事ができました。 1ヵ月後、ERPシステムを英語から日本語に翻訳するテームの一員が、 フィリピンから、こちらのプロジェクトに参画しました。 翻訳とシステム開発は、別物なので仕事を遂行できるのか疑問に思いました。 質問には、応答しましたが、ベースがないように思えました。 2ヶ月くらいして、お客様から彼を雇用するか質問されたので、 お茶を濁しました。1週間後、再度質問されたので、小生の意見を言いました。 非情のようですが、自分にあった仕事でないと不幸だと思いました。 会計部門のマネージャーと日本からの駐在員の方と昼食に行きました。 チャンバラと言ってステーキを食べ易いサイズに切ってサーブしてくれました。 日本からの駐在員の方が、拙宅に来たいと言うので、週末に小生の手料理をサーブしました。 お世辞が上手な方で、茶碗蒸しが、彼の奥さんの茶碗蒸しより滑らかで、おいしいとお褒めの言葉を頂きました。いろいろ話していたら、彼は駐在員なので、何れ日本に戻るので、英語はあまり必要ないと言っていました。そういう考え方もありかなと思いました。 小生のように、脳内出血の後遺症で、日本語が出てこなくなって、スピーキング セラピーで大分話せるようになったつもりですが、ビジネスレベルの日本語は、全然ダメなので、 日本にいたら、正しい日本語が話せるようになりたいと思います。 仕事は、順調でしたが、突然日本に住んでいる母が、胃がんの末期でどのくらいもつかわからないと連絡が来ました。胃の全摘手術をするので、一旦、日本に戻ることにしました。




オハイオ州の生活 その2 [回顧録]

とうもろこし畑の収穫が始まりました。大きいトラクターが片方の車輪だけを舗装された道路に乗せて、もう片方の車輪は土の道路でない所でゆっくり走っていました。 のどかな田舎風景でした。この道は、通勤道路として使っている道です。休みの日は町の探索をしていました。道路の片隅に野菜の直販所があったので、寄り道して覗いてみました。 はちみつ、ジャム、メロン、とうもろこし。。。いろいろありました。 メロン(ハニードウ)が1つ 1$、 とうもろこしが12本     1$ で購入しました。 家で食べたら、みずみずしくて、おいしかった。 ガソリン、牛乳、ビール、チーズ、ワインは日本の3分の1くらいの価格だった。 他の食料品も日本より安かったと思う。 生活しやすかった。ただ年間を通して静電気と雷が多かった。 秋になると、とうもろこし畑の道路を隔てて反対側にオレンジ色のかぼちゃがたくさんできていた。ハローウィーンで使用するのだろう。 小生の中の日本の秋のイメージは、ススキですが、アメリカでは、オレンジ色のかぼちゃになりました。クリスマスには、妻と子供たちが、アメリカに来てくれました。 長女は、ミネソタ州に留学していたので、ミネアポリスからデイトンまで来てくれました。 オーブンで15ポンドのターキーをグリルして、家族にサーブしました。 長女は、ターキーを食べ飽きているので、他のものが食べたいと言っていたので、 長女にはエルク(ヒラジカ)のグリルをマヨネーズ醤油でサーブしました。 翌日は、車で4時間くらいのベルファンテンに家族を連れて行き、 スキーもどきをしました。 普通の小高い丘にスキー板を担いで登って、スキーで滑るというもので、 いい運動になりました。昼食は、ABでハンバーガーセットを食べました。 帰りの道中で、ダラーショップに寄ってジャストルッキングを楽しみました。 その日の夜、家から1時間くらいのラッドフォールズにクリスマスデコレーションを見に行きました。無名の滝ですが、華厳の滝の7倍以上の大きさでした。クリスマスということもあり、人もちらほらいました。家までの道中、各家庭のデコレーションを拝見しました。 冬の夜の冷たい空気にキラキラの明かりがマッチして、とてもきれいでした。 クリスマス後は、小生は出社して、子供たちは近所の友達と遊んでいました。 定時に仕事を終わらせ、ディナーは、妻と子供たちの調理したものを家族で頂きました。 夕食後は、隣人のJDの家でゲームをして遊んでいました。 子供は、言葉を理解しなくても、コミュニケーションが取れるのでしょうか? 家族水入らずで、1週間以上一緒に暮らしました。 みんな予定があるので、帰るときが来ました。 ずっとひとりでいたので、寂しくないと思っていましたが、にぎやかだった空間が 静かになって、寂しいと思いました。 プロジェクトも完了に近づいてきました。 EDIの送受信のフォーマットを、従来の項目数より多いフォーマットに変更しました。 沢山のテストケースの確認作業をひとりで実施するには、しんどいのでミシガン州から応援に来て頂きました。応援して頂いたので、テストも無事完了しました。





オハイオ州の生活 [回顧録]

コロンバス空港に行くのに今までは、ロサンゼルス国際空港(LAX)から行っていたのですが、小さなバーバンク空港から行きました。経験ない事をしてみたかったという理由です。 ロサンゼルスを9時頃出発して、デイトン空港に到着したのは、午後5時頃でした。 ロサンゼルスは、パシフィックタイムでデイトン(オハイオ州)は、イースタンタイムなので時差が3時間あるので、実際の飛行時間は、5時間です。デイトン空港で、レンタカーを 借りて、お客様(N Steel)に向かいました。とうもろこし畑がずうっと続いていて、同じような景色だったので、目印がなくて、ちょっと不安になりました。 無事、N Steelに到着しました。Y社長に挨拶し、プロジェクト責任者のランディに挨拶し、業務チーム責任者のトム、経理チーム責任者のメリー・アンに挨拶しました。 経理チームは、アンがふたりいるので、ルース・アン、メリー・アンとファーストネームとファミリーネームを付けて、呼んでいました。現場の責任者のリーンに挨拶し、ランディと プロジェクトの課題と予定を打合せしました。昼休み後、すぐ総務担当者のココにホテルの予約をお願いしました。その晩、歓迎会をやって頂きました。 アメリカの場合、車社会なので、ビール1本くらい飲んで、運転しても酒気帯び運転で、罰を受けることはありませんでした。ホテルに帰る途中、ホタルが沢山いました。 冗談でなく、日本のホタルの光よりかなり大きく感じました。 翌日午後、2時間ほど時間を頂いて、アパートを決めました。2箇所に絞り、最終的に マイケルコートの物件にしました。 2ベッドルームで500$(約70,000円) / 月に決めました。 会社に戻る途中で、ベッドとテレビを購入しました。 仕事も順調で、問題ありませんでした。最初の週末に車を購入しました。 PXXというC社の車です。C社の車は故障が多いと聞いていたので、結構な額を値引きして貰いました。店員は、沖縄に駐在していたことがあると言っていました。 帰り際に、「ありがとう」と日本語を話しました。 運転免許証を取りに行きました。簡単な筆記試験と高速道路で運転し、合格。 マニューバーテストと写真撮影をして、20$支払って、すぐ免許証を貰いました。 運転免許証取得祝いで、ニードモアーのエアーフォースミュージアムに行きました。 無料で、いろいろ見学できるのでお勧めです。 アパートの隣人と、なまず(キャットフィシュ)釣りをしました。バーベキューもしました。 このように私生活も楽しんでいました。 隣人のJD(ジョーダウンズ)の車で、スポーツバーに行った帰りにサイフを落としてしまいました。 近くの警察署に紛失届けを出しに行きました。 防弾ガラスの向こう側に警察官がいて、マイクで用件を聞いて手続きしました。 日本の警察署にも行ったことがあるので、アメリカが、いかに銃社会なのかを感じました。





カリフォルニアでの生活 [回顧録]

仕事を終えて、たまには一人で食事をしてみたかったので、ギリシャ料理の店に入ってみました。ムサカ(野菜のラザニア)とギロピタとザジキを注文しました。料理の味より、 パフォーマンスが面白かった。食事が済むと店員が踊ってお皿を割るのを初めて見ました。 どんな意味か聞いてみたら、 「結婚式で嫁側が皿を持ってきて、「今日結婚するのでもう実家では作りませんよ」という意味を込めて皿を割る。 」と言っていました。 6月中旬だったので、ホテルに戻ると夜8時頃なのに「プール」で泳いでいる人が沢山いました。ホテルのバーで、一人でお酒を飲んでいると、バーテンダーがいろいろ話かけてくるので、退屈しませんでした。7月の第一週の土曜日は、 独立記念日なので、ロサンゼルス郊外の高台の住宅でバーベキューに招待されました。 ここの自家製ソーセージが、絶品でした。電動の腸詰で、 見ている前でソーセージを作ってくれて、即グリルしてくれました。 花火も日本の花火のように精巧ではありませんでしたが、雰囲気が盛り上がりました。 社長の家にも招待して頂きました。テーブルが大きくて長いのには、驚かされました。 プールとプールの周りも、とても広くて気持ちよかったです。 週末には早朝、ロサンゼルスから車で3時間くらいの桟橋で魚釣りをしました。 数人が魚釣りをしていましたが、小生だけしか釣れなくて、みんなが小生の周りに寄ってきたので、オマツリ(みんなの釣り糸が絡まる)になってしまいました。 小生は、得意げに釣り方を教えてあげました。フカセといって上下に動かす釣り方を教えました。何故かというとルアーなので生きている餌のように見せるためです。 何人かの人は釣れて大喜びして、「今晩のディナーに調理する」と言っていました。 別の週末は、ロサンゼルスのゴルフコースも回ってみました。 カートなので、午後からスタートしても夕方には終わりました。 プレー後にクラブハウスでクランベリージュースを飲みましたが、最高においしく感じました。 仕事のウォーミングアップも終わり、ミッドウェストに転勤が決まったので、あいさつに オハイオ州に行きました。直行便は、高価なのでコロラド州デンバー経由で、 インディアナポリスで降りてレンタカーを借りてオハイオ州まで行きました。 ロサンゼルスを朝、出発してオハイオ州に到着したのは、午後8時頃だったと記憶しています。翌朝、お客様(N Steel)に、ご挨拶に伺いました。 社長は、ABC商事の方でした。 社長が、日本語で質問したので、日本語で応答しました。 何か場が盛り下がったようでした。 その他は、英語で質問したので、英語で応答しました。 帰りに「See you soon.」と言ったら、ニキさんが、笑っていました。 この後、一週間してオハイオで仕事をするようになりました。






転職 [回顧録]

親元を離れ会社の寮で生活し、3年が過ぎた頃、ホームシックか仕事に飽きたのか覚えていませんが、コンピュータのオペレーティングシステムに興味がなくなって、業務を勉強し 事務の合理化をしたいと心変わりをしました。偶然故郷から車で30分くらいの所で人材募集していたので、コンタクトを取り、入社させて頂きました。途中入社でプレッシャーがありましたが、職場の同僚や先輩がとてもよく接してくれたので、楽しく仕事をさせて頂きました。実家から自動車通勤していたので、たまに先輩にお酒を誘われて、自動車で帰宅できないので、先輩のお宅に泊めて頂くこともしばしばありました。入社したばかりなのに、 社内恋愛をしました。お相手が、とても気さくな方だったので、先輩としてではなく恋人として扱って下さったので、精神面で安らぎを感じ、幸せな日々を送ることができました。 歳月が流れ、彼女の親が、彼女の結婚相手を決めて、彼女は、その方と結婚して幸せに暮らしています。結婚は、親が認めた人とするのが、一番いいと思いました。 この後、優柔不断で、唯々諾々の自分自身に嫌気が差しました。 そんな小生を先輩は、慰めてくれようとテニス、マージャン、飲み会に誘って下さいました。 心の隙間を埋めようとして、見合いもしましたが、どうもうまくいきませんでした。 数年後、結婚とは何かを熟考しないで、結婚し相手を傷つけ自分も傷つきました。 仕事は、ホストコンピュータのソフト開発から、サーバーを利用したERPシステム開発に変わっていきました。10年程ERPシステム開発に携わった時に、 アメリカの企業からオファーがありました。自分の能力を試してみたかったので、 ふたつ返事で引き受けました。渡米する前に、英語検定とTOEICを受験しました。 スコアーは、アメリカの企業に送付しました。すぐに仕事に就けるようだったので、 虎ノ門のアメリカ大使館に書類の手続きに行きました。書類が出来てすぐに、渡米しました。 ロサンゼルス国際空港で、会社の方に会って、車でホテルの予約をし、事務所に向かいました。ホテルから事務所まで車で10分~15分くらいの距離でした。事務所には、アジア系の人は、チャイニーズアメリカンの男性と日本人の女性がいました。とりあえず電話をお借りして、ソーシャルセキュリティーの手続きをしたいので、場所を確認し、社用車で連れて行って貰いました。これは、コミュニケーション能力テストだったようです。 翌日から、仕事を始めました。プログラマーの方で日本人がいました。彼はアメリカに6年滞在しているようでしたが、英語のコミュニケーション能力が低いので、小生の給与より少なかった。リザルトオリエンテッド(結果志向)であることを目の当たりにしました。 ウォーミングアップで、メインテナンス作業をしました。ソースコードを見るのも久しぶりでしたが、英語でコメントが沢山あったので、意外と簡単な作業でした。





高校時代と社会人の前半 [回顧録]

小生は、大学進学を目指していたので、普通高校に通いました。 文系を目指していたので、文系のクラスになりました。 毎朝、落合恵子さんのラジオ番組の話題が、メインだったようです。 歌は、ビートルズ、シルビーバルタン、サイモンとガーファンクルなどでした。 男子のほうが多かったので、バイクの話題も多かったと記憶しています。 ホンダのCB750は、200kg以上あったように記憶しています。 今は、当時からすると,軽量で排気量も2倍以上のマシンもあるので、驚きます。 部活動は、化学クラブに所属して、ケミカルガーデンとか、フッ化水素でガラスを 腐食させました。格技という科目があり、柔道か剣道を選択するシステムだったので、 柔道を選択しました。思い出したくないのですが、よく投げられていました。 もうひとつ芸術という科目があり、美術と書道を選択するようになっていたので、 書道を選択しました。空海や王義之の蘭亭序(らんていじょ)を勉強しました。 学校の正門にある石碑は、この時教わった書道の教師が、書いたそうです。 高校3年生の時に、幼少の頃からお世話になっていた伯父が、事故死してしまいました。 勉強をイヤイヤやっていたので、人生なんて水面にできては消える泡の様に儚いものだと 言い訳を作って、勉強をサボってマージャンにのめり込みました。 「親の気持ち、子知らず」とは、正にこの事でした。 結局成績も下がり、進学は諦めました。 家を離れ、会社の寮で生活しました。会社も最初は、講義みたいなものを行い、 一ヶ月くらいしたら、オリエンテーリングで三浦海岸に行きました。 仕事は、小生に向いていたようでした。知らない事を調査し理解できるとうれしくて、毎週金曜日は、 自主的に調査をして、知識を身につけました。 他の人と自分を比較して、自分のほうが、知識があるという優越感を 自信と勘違いして、満足していました。7月の始めの週に、社内旅行で、 伊豆七島の式根島に行きました。竹下桟橋から大島までは大きなフェリーで行き、 大島からは、はしけと言う小さい船に乗り換えて式根島へ到着しました。 式根島で下船して陸地なのに、体が揺れているような感じが残っていました。 砂浜は、真っ白で感動しました。 夜は宴会で、先輩がギターの弾き語りを披露しました。 その夜は、お酒も飲んでいたので、爆睡しました。 朝起きたら、民宿の床の間の牛乳瓶の生け花に15cmくらいのムカデが 這っていたので、驚きました。 誰も刺されなくて、ほっとしました。 金曜の晩に竹下桟橋を出航して、船中で一泊、式根島の民宿で一泊、 日曜の晩に竹下桟橋着の小旅行でしたが、とても楽しかった。 仕事も問題なく、こなしました。 会社の野球同好会で、他社の人たちと試合をしたり、丹沢にハイキングに行ったり、 社会人の生活を満喫しました。





中学時代 [回顧録]

小生の通った中学校は、C小学校卒業生、N小学校卒業生、T小学校卒業生、F小学校卒業生の4つの地区の小学校出身者が集まっていました。最初に、部活動を決めました。 クラスの担任が、剣道部の顧問をやっていたので、「剣道は、頭のよくなるスポーツ」と言っていたようです。剣道部の入部希望者が多かったと記憶しています。小生は、あまり目立たない部がよかったので、バスケット部に入部しました。持久力がなかったので、ダッシュ10本でへとへとになっていました。一緒に入部した生徒は、走るのも早く根性もあったので、文句も言わず平気な顔で、ひたすらダッシュをしていました。練習が、終わった後に水を飲んだ時、水がこんなに、おいしいものだと初めて知りました。 フリースローの練習や速攻という試合のテクニックなど教わりました。 ドリブル練習も簡単そうに見えましたが、小生には難しく上手くできませんでした。 この時は、努力をする事に気づいていませんでした。 運動ダメ、絵を描く事もダメ、音楽ダメ唯一勉強だけが、普通だったので、勉強に力を注ぐようにしようと思ったようです。気持ちだけで、事実、勉強もあまりしませんでした。 英語の授業は、気に入っていたので楽しかった。他の科目は、あまり吸収できなかったのですが、「好きこそ物の上手なれ」って言うのか、以外と吸収したと思います。 これをきっかけに、英語に興味を持ち、後にアメリカの企業で働くようになりました。 中学3年生になり、同級生の女子に憧れ、彼女が読書好きな事を知り、小生も本を読もうと、 パールバックの「大地」を読んだことを忘れません。「大地」は中国を舞台にした長編でしたが、おもしろかったので、読破しました。その後、小生なりに憧れの女子に、告白するかやめるか、悩み続けました。そして、ラブレターを書きました。手紙を初めて書いたのが、 ラブレターだったとは、我ながらこそばゆいです。今思い出せば、笑えますが、当時は、 真剣だったのです。「野菊の墓」の政夫と民子のように、純情だったのです。彼女の住所をどのようにして、知ったのか?不思議です。夜こっそり、投函した事を思い出し、ときめいています。彼女からの返信をもらい、ドキドキして開封したことも記憶しています。 場所も指定してあり、2週間後に会う予定でしたが、会うことは、できませんでした。 この気持ちを忘れようと、今まで自分の限界に思っていた事に挑戦しました。 年齢的に持久力もついてきたのかも知れませんが、1500m走など人並みの記録で走れるようになりました。





小学校時代 [回顧録]

掛け算九九の暗記が、できなくて家で練習させられた記憶があります。
アイスの棒の縁に、松脂(マツヤニ)をつけて、小学校の池に入れると松脂のアブラで棒が進むように見えて、ふしぎで何度も同じことをやっていました。それに飽きると、薄い板でできた船のおもちゃ(ゴム動力でおもちゃのスクリューが回る)を池の水面で走らせて、楽しんでいました。小学校2年生の時に、クレヨンと絵の具でニワトリの足が4本の絵を描いて、銀賞を貰いました。その後は、一度も賞をとることはありませんでした。
音楽では、ハーモニカ、リコーダを教わりましたが、苦手でした。
竹ヒゴに薄い紙を貼ったゴム動力の飛行機を小学校のグランドで飛ばし遊んだことを覚えています。小学校時代は、ゴム動力がマイブームだったようです。
風の強い日にゴム動力の飛行機を飛ばして、小学校の校舎の屋根に引っ掛けてしまい、屋根に上って飛行機をとった時の様子を教師が見ていて、屋根から下りたら駆けつけて、「怪我したら、どうするんだ!」と怒鳴られビンタされました。今だったら、暴力と言って問題にするかもしれませんが、私的には、愛情を持って、しかって頂いたと思っています。
今思えば、危険だったことが、ひとつあります。それは、コウモリを捕まえに3人くらいで、洞窟みたいな所(白土採取跡)に入って探検気分を味わいました。元の場所に戻れるように、紡績糸を入り口の木に縛って入って行きました。中は真っ暗で、子供心に未知への期待と不安を感じたのだと思います。コウモリは、たくさんいましたが、ひとつだけ捕獲しました。
その時はじめて、達成感みたいなものを知りました。捕獲したコウモリは、小鳥のケージに入れて暗くするのに、周りを風呂敷で覆ってあげました。翌日覗いてみると、コウモリの体から小さな虫のようなものが、たくさん出ていました。かわいそうな事をしてしまいました。
低学年の時に遊んでいた小学校の池が、使用禁止になりました。
新一年生が遊んでいて、池の周りの石で擦り傷を作って、池の水で洗ったら、破傷風になってしまい、残念な事に亡くなってしまいました。その時初めて、破傷風という言葉を耳にしました。その後、小生も破傷風の予防接種をしました。
夏休みには、児童会の奉仕活動で、廃品回収をやりました。
リヤカーで、近所の家を回り、ビールの空きビン、日本酒の空きビン、雑誌、新聞を集めました。夏休みといえば、毎朝、ラジオ体操を小学校のグランドでやりました。





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