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カリフォルニアでの生活 [回顧録]

仕事を終えて、たまには一人で食事をしてみたかったので、ギリシャ料理の店に入ってみました。ムサカ(野菜のラザニア)とギロピタとザジキを注文しました。料理の味より、 パフォーマンスが面白かった。食事が済むと店員が踊ってお皿を割るのを初めて見ました。 どんな意味か聞いてみたら、 「結婚式で嫁側が皿を持ってきて、「今日結婚するのでもう実家では作りませんよ」という意味を込めて皿を割る。 」と言っていました。 6月中旬だったので、ホテルに戻ると夜8時頃なのに「プール」で泳いでいる人が沢山いました。ホテルのバーで、一人でお酒を飲んでいると、バーテンダーがいろいろ話かけてくるので、退屈しませんでした。7月の第一週の土曜日は、 独立記念日なので、ロサンゼルス郊外の高台の住宅でバーベキューに招待されました。 ここの自家製ソーセージが、絶品でした。電動の腸詰で、 見ている前でソーセージを作ってくれて、即グリルしてくれました。 花火も日本の花火のように精巧ではありませんでしたが、雰囲気が盛り上がりました。 社長の家にも招待して頂きました。テーブルが大きくて長いのには、驚かされました。 プールとプールの周りも、とても広くて気持ちよかったです。 週末には早朝、ロサンゼルスから車で3時間くらいの桟橋で魚釣りをしました。 数人が魚釣りをしていましたが、小生だけしか釣れなくて、みんなが小生の周りに寄ってきたので、オマツリ(みんなの釣り糸が絡まる)になってしまいました。 小生は、得意げに釣り方を教えてあげました。フカセといって上下に動かす釣り方を教えました。何故かというとルアーなので生きている餌のように見せるためです。 何人かの人は釣れて大喜びして、「今晩のディナーに調理する」と言っていました。 別の週末は、ロサンゼルスのゴルフコースも回ってみました。 カートなので、午後からスタートしても夕方には終わりました。 プレー後にクラブハウスでクランベリージュースを飲みましたが、最高においしく感じました。 仕事のウォーミングアップも終わり、ミッドウェストに転勤が決まったので、あいさつに オハイオ州に行きました。直行便は、高価なのでコロラド州デンバー経由で、 インディアナポリスで降りてレンタカーを借りてオハイオ州まで行きました。 ロサンゼルスを朝、出発してオハイオ州に到着したのは、午後8時頃だったと記憶しています。翌朝、お客様(N Steel)に、ご挨拶に伺いました。 社長は、ABC商事の方でした。 社長が、日本語で質問したので、日本語で応答しました。 何か場が盛り下がったようでした。 その他は、英語で質問したので、英語で応答しました。 帰りに「See you soon.」と言ったら、ニキさんが、笑っていました。 この後、一週間してオハイオで仕事をするようになりました。






転職 [回顧録]

親元を離れ会社の寮で生活し、3年が過ぎた頃、ホームシックか仕事に飽きたのか覚えていませんが、コンピュータのオペレーティングシステムに興味がなくなって、業務を勉強し 事務の合理化をしたいと心変わりをしました。偶然故郷から車で30分くらいの所で人材募集していたので、コンタクトを取り、入社させて頂きました。途中入社でプレッシャーがありましたが、職場の同僚や先輩がとてもよく接してくれたので、楽しく仕事をさせて頂きました。実家から自動車通勤していたので、たまに先輩にお酒を誘われて、自動車で帰宅できないので、先輩のお宅に泊めて頂くこともしばしばありました。入社したばかりなのに、 社内恋愛をしました。お相手が、とても気さくな方だったので、先輩としてではなく恋人として扱って下さったので、精神面で安らぎを感じ、幸せな日々を送ることができました。 歳月が流れ、彼女の親が、彼女の結婚相手を決めて、彼女は、その方と結婚して幸せに暮らしています。結婚は、親が認めた人とするのが、一番いいと思いました。 この後、優柔不断で、唯々諾々の自分自身に嫌気が差しました。 そんな小生を先輩は、慰めてくれようとテニス、マージャン、飲み会に誘って下さいました。 心の隙間を埋めようとして、見合いもしましたが、どうもうまくいきませんでした。 数年後、結婚とは何かを熟考しないで、結婚し相手を傷つけ自分も傷つきました。 仕事は、ホストコンピュータのソフト開発から、サーバーを利用したERPシステム開発に変わっていきました。10年程ERPシステム開発に携わった時に、 アメリカの企業からオファーがありました。自分の能力を試してみたかったので、 ふたつ返事で引き受けました。渡米する前に、英語検定とTOEICを受験しました。 スコアーは、アメリカの企業に送付しました。すぐに仕事に就けるようだったので、 虎ノ門のアメリカ大使館に書類の手続きに行きました。書類が出来てすぐに、渡米しました。 ロサンゼルス国際空港で、会社の方に会って、車でホテルの予約をし、事務所に向かいました。ホテルから事務所まで車で10分~15分くらいの距離でした。事務所には、アジア系の人は、チャイニーズアメリカンの男性と日本人の女性がいました。とりあえず電話をお借りして、ソーシャルセキュリティーの手続きをしたいので、場所を確認し、社用車で連れて行って貰いました。これは、コミュニケーション能力テストだったようです。 翌日から、仕事を始めました。プログラマーの方で日本人がいました。彼はアメリカに6年滞在しているようでしたが、英語のコミュニケーション能力が低いので、小生の給与より少なかった。リザルトオリエンテッド(結果志向)であることを目の当たりにしました。 ウォーミングアップで、メインテナンス作業をしました。ソースコードを見るのも久しぶりでしたが、英語でコメントが沢山あったので、意外と簡単な作業でした。





高校時代と社会人の前半 [回顧録]

小生は、大学進学を目指していたので、普通高校に通いました。 文系を目指していたので、文系のクラスになりました。 毎朝、落合恵子さんのラジオ番組の話題が、メインだったようです。 歌は、ビートルズ、シルビーバルタン、サイモンとガーファンクルなどでした。 男子のほうが多かったので、バイクの話題も多かったと記憶しています。 ホンダのCB750は、200kg以上あったように記憶しています。 今は、当時からすると,軽量で排気量も2倍以上のマシンもあるので、驚きます。 部活動は、化学クラブに所属して、ケミカルガーデンとか、フッ化水素でガラスを 腐食させました。格技という科目があり、柔道か剣道を選択するシステムだったので、 柔道を選択しました。思い出したくないのですが、よく投げられていました。 もうひとつ芸術という科目があり、美術と書道を選択するようになっていたので、 書道を選択しました。空海や王義之の蘭亭序(らんていじょ)を勉強しました。 学校の正門にある石碑は、この時教わった書道の教師が、書いたそうです。 高校3年生の時に、幼少の頃からお世話になっていた伯父が、事故死してしまいました。 勉強をイヤイヤやっていたので、人生なんて水面にできては消える泡の様に儚いものだと 言い訳を作って、勉強をサボってマージャンにのめり込みました。 「親の気持ち、子知らず」とは、正にこの事でした。 結局成績も下がり、進学は諦めました。 家を離れ、会社の寮で生活しました。会社も最初は、講義みたいなものを行い、 一ヶ月くらいしたら、オリエンテーリングで三浦海岸に行きました。 仕事は、小生に向いていたようでした。知らない事を調査し理解できるとうれしくて、毎週金曜日は、 自主的に調査をして、知識を身につけました。 他の人と自分を比較して、自分のほうが、知識があるという優越感を 自信と勘違いして、満足していました。7月の始めの週に、社内旅行で、 伊豆七島の式根島に行きました。竹下桟橋から大島までは大きなフェリーで行き、 大島からは、はしけと言う小さい船に乗り換えて式根島へ到着しました。 式根島で下船して陸地なのに、体が揺れているような感じが残っていました。 砂浜は、真っ白で感動しました。 夜は宴会で、先輩がギターの弾き語りを披露しました。 その夜は、お酒も飲んでいたので、爆睡しました。 朝起きたら、民宿の床の間の牛乳瓶の生け花に15cmくらいのムカデが 這っていたので、驚きました。 誰も刺されなくて、ほっとしました。 金曜の晩に竹下桟橋を出航して、船中で一泊、式根島の民宿で一泊、 日曜の晩に竹下桟橋着の小旅行でしたが、とても楽しかった。 仕事も問題なく、こなしました。 会社の野球同好会で、他社の人たちと試合をしたり、丹沢にハイキングに行ったり、 社会人の生活を満喫しました。





中学時代 [回顧録]

小生の通った中学校は、C小学校卒業生、N小学校卒業生、T小学校卒業生、F小学校卒業生の4つの地区の小学校出身者が集まっていました。最初に、部活動を決めました。 クラスの担任が、剣道部の顧問をやっていたので、「剣道は、頭のよくなるスポーツ」と言っていたようです。剣道部の入部希望者が多かったと記憶しています。小生は、あまり目立たない部がよかったので、バスケット部に入部しました。持久力がなかったので、ダッシュ10本でへとへとになっていました。一緒に入部した生徒は、走るのも早く根性もあったので、文句も言わず平気な顔で、ひたすらダッシュをしていました。練習が、終わった後に水を飲んだ時、水がこんなに、おいしいものだと初めて知りました。 フリースローの練習や速攻という試合のテクニックなど教わりました。 ドリブル練習も簡単そうに見えましたが、小生には難しく上手くできませんでした。 この時は、努力をする事に気づいていませんでした。 運動ダメ、絵を描く事もダメ、音楽ダメ唯一勉強だけが、普通だったので、勉強に力を注ぐようにしようと思ったようです。気持ちだけで、事実、勉強もあまりしませんでした。 英語の授業は、気に入っていたので楽しかった。他の科目は、あまり吸収できなかったのですが、「好きこそ物の上手なれ」って言うのか、以外と吸収したと思います。 これをきっかけに、英語に興味を持ち、後にアメリカの企業で働くようになりました。 中学3年生になり、同級生の女子に憧れ、彼女が読書好きな事を知り、小生も本を読もうと、 パールバックの「大地」を読んだことを忘れません。「大地」は中国を舞台にした長編でしたが、おもしろかったので、読破しました。その後、小生なりに憧れの女子に、告白するかやめるか、悩み続けました。そして、ラブレターを書きました。手紙を初めて書いたのが、 ラブレターだったとは、我ながらこそばゆいです。今思い出せば、笑えますが、当時は、 真剣だったのです。「野菊の墓」の政夫と民子のように、純情だったのです。彼女の住所をどのようにして、知ったのか?不思議です。夜こっそり、投函した事を思い出し、ときめいています。彼女からの返信をもらい、ドキドキして開封したことも記憶しています。 場所も指定してあり、2週間後に会う予定でしたが、会うことは、できませんでした。 この気持ちを忘れようと、今まで自分の限界に思っていた事に挑戦しました。 年齢的に持久力もついてきたのかも知れませんが、1500m走など人並みの記録で走れるようになりました。





小学校時代 [回顧録]

掛け算九九の暗記が、できなくて家で練習させられた記憶があります。
アイスの棒の縁に、松脂(マツヤニ)をつけて、小学校の池に入れると松脂のアブラで棒が進むように見えて、ふしぎで何度も同じことをやっていました。それに飽きると、薄い板でできた船のおもちゃ(ゴム動力でおもちゃのスクリューが回る)を池の水面で走らせて、楽しんでいました。小学校2年生の時に、クレヨンと絵の具でニワトリの足が4本の絵を描いて、銀賞を貰いました。その後は、一度も賞をとることはありませんでした。
音楽では、ハーモニカ、リコーダを教わりましたが、苦手でした。
竹ヒゴに薄い紙を貼ったゴム動力の飛行機を小学校のグランドで飛ばし遊んだことを覚えています。小学校時代は、ゴム動力がマイブームだったようです。
風の強い日にゴム動力の飛行機を飛ばして、小学校の校舎の屋根に引っ掛けてしまい、屋根に上って飛行機をとった時の様子を教師が見ていて、屋根から下りたら駆けつけて、「怪我したら、どうするんだ!」と怒鳴られビンタされました。今だったら、暴力と言って問題にするかもしれませんが、私的には、愛情を持って、しかって頂いたと思っています。
今思えば、危険だったことが、ひとつあります。それは、コウモリを捕まえに3人くらいで、洞窟みたいな所(白土採取跡)に入って探検気分を味わいました。元の場所に戻れるように、紡績糸を入り口の木に縛って入って行きました。中は真っ暗で、子供心に未知への期待と不安を感じたのだと思います。コウモリは、たくさんいましたが、ひとつだけ捕獲しました。
その時はじめて、達成感みたいなものを知りました。捕獲したコウモリは、小鳥のケージに入れて暗くするのに、周りを風呂敷で覆ってあげました。翌日覗いてみると、コウモリの体から小さな虫のようなものが、たくさん出ていました。かわいそうな事をしてしまいました。
低学年の時に遊んでいた小学校の池が、使用禁止になりました。
新一年生が遊んでいて、池の周りの石で擦り傷を作って、池の水で洗ったら、破傷風になってしまい、残念な事に亡くなってしまいました。その時初めて、破傷風という言葉を耳にしました。その後、小生も破傷風の予防接種をしました。
夏休みには、児童会の奉仕活動で、廃品回収をやりました。
リヤカーで、近所の家を回り、ビールの空きビン、日本酒の空きビン、雑誌、新聞を集めました。夏休みといえば、毎朝、ラジオ体操を小学校のグランドでやりました。





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